あなたのための微笑み 

密事(みそかごと)すべからく秘すべしと思へども 気色に滲み出づ心の濁り
(ひよどり)

二人の愛がどんなに真剣なものであろうとも、二人の魂がどんなに深いところで繋がっていようとも、 二人がこの出逢いを運命だと信じようとも、世間では密通呼ばわりされることに変わりはない。
このような関係は、秘するべきこと、隠されるべきものなのだ。
誰かに悟られるような態度をとってはいけない。
そんなこと、わかっている。
だけど、あなたを見る時のわたしの目は恋する女のそれになり、 あなたに話しかける時のわたしの声は自分でも気付くほど艶やかになっている。 あなたが側にいるだけで、わたしの身体は熱を帯びる。
誰かに気付かれるかもしれない、と思うと、竦(すく)んでしまう。おどおどしてしまう。
かえって不自然な振る舞いをしてしまうわたし・・・。
この想いを自分の中だけに留めておくことは、本当に難しい。大勢の人の中であなたへの気持ちを隠そうとすると、苦しくて仕方なくなるのです。


ふとしたはずみに
ふたりしか知らないことを
言いそうになって 口をつぐむ
他の人と一緒の中で
あなたといるのがつらい

ふたりだけならば
肩を抱くはずの時に
煙草をふかして 遠くを見る
他の人と一緒の中で
あなたといるのがつらい

それはいいとして
大切なあなたのための
微笑み つい浮かべたりする
他の人に そんな微笑み
あげたりするのがつらい


(ちあきなおみ 「あなたのための微笑み」  作詞:小椋佳)
                              
*-+-*-+-*-+-*-+-*-+-*-+-*-+-*-+-*-+-*-+-*-+-*

これが、ふたりが初めて「肉体関係」を持つに至った、嘘偽りのない経緯である。
彼女だけの気が急いて、彼にしてみれば心の準備も何もない状態で交わることになった。互いの身体を充分に愛撫することすらできなかったし、絶頂に達するまで一体になっていたわけでもない。 何もかも中途半端、そして彼にとっては解せないところの多い交合だったと思われる。
しかし「挿入」はしたという意味で、ふたりはもうプラトニックな関係ではなくなった。
この書斎での一件は、今でも事あるごとに話題にのぼる。
「襲われちゃったよねぇ〜」と彼は笑ってはいるが、かなり不本意な出来事であったことは間違いないと思う。

彼女は入院先の病院に戻ってからも、股間が火照っているかのような感覚がしばらく残っていた。ヴァギナには擦れたようなヒリヒリ感もあった。
10年以上も冬眠していたのに、いきなり活動を再開したのと同じだから、きっと身体が驚いてしまったのだろう。ベッドの上で休んでいるときも、消灯後も、この日の書斎での情交の場面が何度も何度も脳裡に再生されて、また疼きを感じてしまうのだった。彼女の身体は、完全に冬眠から覚めていた。

「今度の木曜日、毎年やっている勉強会があるんだけど、来てみない?君はクライアントのふりをしていればいい。家族も来るんだ。妻にも君の事は話してあるけど、まったく面識がなかった新しいクライアントだと嘘をついている。昔のことも言っていない」
彼は定期的に勉強会を主催しているのだが、12月には1年の総決算ともいうべき重要な会の予定が組まれているという。その会に、是非出てみないか、と誘われたのだ。
彼女は勿論、学びたかったし、彼にも逢いたかった・・・しかし、罪悪感からくる躊躇にも似た感情を覚えて、二つ返事をすることができなかった。そんな彼女の背中を押したのは(彼の妻に逢いたい)という強い思いだった。彼女との再会後すぐに家族の写真を送ってくれていたので、顔は知っていた。そこから受けた印象は以前の記事に書いたが、
『完全に負けた!』というものだった。
悋気(りんき)とか悔しさから出た言葉ではない。正直にそう思ったのだ。
(こんな自分ではなく現在の妻と結婚して彼は幸せだったのだ。これでよかったんだ)
(彼のことを幸せにしてくれて、彼の総てを包んでくれて、本当に嬉しい。ありがとうございます。)
という感謝の念すら、妻に対して沸いてくるのだった。
実際に、逢ってみたい!25年前、互いに強く惹かれあい、彼からアプローチを受けたにも関わらず、彼女には別れる直前の男がいたために、交際に踏み切れず何もないまま別れた。その後で見初めたであろう、現在の妻。彼が愛した女性(ひと)、そして、彼を愛してくれている女性(ひと)・・・一目逢ってみたいと思った。
この時期、彼は自身の結婚生活について多くは語らなかったし、彼女と互いの気持ちを確かめ合った後も「僕は妻とは別れない」と明言していたので、妻とは深く愛し合い、幸せな家庭を築いているという印象しか持たなかったし、そう信じていた。

その会は彼の自宅近くの会場を借りて行われた。夜に行われるため、出席するとなると、その日のうちに入院先の病院に戻ることは不可能だ。彼女は主治医から「外泊許可」を得て、最寄の駅近くのホテルに部屋をとった。早めにチェックインして荷物を部屋に置くと足早に会場へ向かった。
30名ほどの参加者があっただろうか。 彼女とデートする時には、いつもラフな装いの彼が、その日はスーツを着ていた。この時初めて彼のスーツ姿を見たのだが、黒い上下に淡いピンクのネクタイが映え、その色のバランスが、彼の端正な顔だちを殊更にに引き立てていて、思わずうっとりと見惚れてしまった。
しかし、彼女はクライアントのひとりとして参加しているという建前である。周りの人に不審感を与えるような行動は差し控えなければいけない。彼女は彼を見つめたい気持ちをぐっとこらえ、配られたテキストを手に着席しようとした。
そのとき、彼が微笑みながら近づいてくるのが目に入った。
「Aさん、よく来てくれたね。ありがとう」
わざと周囲の人に聞こえるような大きな声で話しかけてきた。彼女は
「今夜はお招き下さってありがとうございます」と一礼した。
さりげない視線を作為的に作り、彼への熱い想いが表に出ないよう、声のトーンにも気を配った。
ふと目を逸らすと、彼の後方に、写真で見た女性が立っているのが見えた。彼の妻である。
彼は早速妻と彼女を引き合わせてくれた。
「妻です。こちらがAさんね」
妻はにこやかな笑みを浮かべて
「こんにちは。遠い所をどうも・・・」と言った。
彼女は、動揺を隠しつつ、
「こちらこそ、Yさんには大変お世話になっています」と答えた。
よかった。感じのよい人だ。優しそうな人だ。
彼は毎日この女性の愛に包まれて幸せに暮らしている・・・これまでは想像の域を出なかったが、こうして実際妻に会って、その情景が途端に現実味を帯びてくるのを感じた。
妻に対する激しい嫉妬は起こらなかった。最初に沸いてきたのは「羨ましい」という感情だった。彼との将来を手放したのは他ならぬ彼女自身なので、あれこれ言う資格がないことはわかっている。
それを差し引いても、とにかく、彼と一緒に生活できる妻が羨ましく思えた。日常的に側にいられるということが羨ましくてたまらなかった。そう、目の前の、この幸せそうな夫婦が羨ましくてならなかったのだ。

彼のレクチャーは1時間以上に及んだ。彼女は一言も聞き漏らすまいと、ペンを握りメモをとりながら、耳を澄まして聴いていた。いつの間にか手は汗で湿り、ペンが滑って字を書くのに難儀した。
彼の話を冷静に聴こうとしても、切なさがこみ上げてきて、ついうっかり、その凛々しい顔を見詰めそうになる。実際、時々顔を上げては彼の姿を確認していた。きっと彼も私の視線に気付いていたであろう、そしてきっと、意識的に彼女の目を見返すことをしなかったのではないだろうか。
(ああ、他の参加者は気付いていないだろうか)
(もしかしたら、私の感情が誰かに見透かされてはいないだろうか)
(ふたりの関係に感づいている人がいたらどうしよう・・・)
彼を想う切なさとともに、こうした心配で胸がきゅっと絞られる感覚を覚えた。そして、悟ったのだ。
(私はもう、他の人と同じようなクライアントの立場ではいられない。私は彼の前では、彼を愛するひとりの女でしかないのだ)と。

この後も何度か勉強会に参加することになるのだが、他の人たちと一緒の中で、自然に振舞うことは難しかった。彼を意識してしまって、どうしてもぎこちない言動をとってしまうのである。他のクライアントたちは、真剣な学びのために来ているのだ。(私は彼らを裏切っている)そう考えると、一方では罪悪感に苛(さいな)まれ辛かった。
それを彼に話したところ、
「僕も同じように思ったよ。もう、無理だね・・・。他の人たちがいるところで、自分たちの気持ちを隠すことは、もう、無理だ。苦しすぎる。それに、僕も他のクライアントを裏切っているという気持ちになるんだよ」
と、静かに答えた。
こうして、彼女は勉強会への出席を、その後一切やめた。

(私が彼だけに見せる、彼だけのためにつくる微笑みを、他の人に見られたくない、否、誰にもみせたくない・・・)
(私の微笑みは彼のためだけにある特別のものなのだ)

帰り間際、周りに誰もいないのを見計らって、彼に挨拶をすると
「明日は午後から外で会議がある。そのまえにホテルに寄るよ」と少し固い表情をしながら囁いた。
「だから、部屋で待っていてくれる?」
「はい。待っています」


本来の?お上品路線に戻ったかしら。うふふ記憶を手繰り寄せながら書いているのだけど、今日の内容は、ちょっと辛かったですね。その時の情景がまざまざと瞼に浮かび、感情が蘇ってくるのです。「妻とは別れない」・・・付き合い始める時にそう告げられて、当時は何の不思議も感じず、むしろ当然だと思っていました。だけど、後々、この言葉に苦しむようになります。彼と何度も喧嘩したっけ(´-ω-`) ごめんなさい〜(←彼へ)
もちろん、今は、その時とは状況が違います。愛が深まるにつれて、彼も私も、変わっていったということなんですが、今後はその辺のところも、上手に書ければと思っています。今日も応援のポチ!して下さると嬉しいです。クリックして下さる方に感謝します。

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さんきゅー
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Comments

ある意味驚き

お久しぶりです。世間から隔絶されていた狸です^^
その後、喧嘩の記事がないので安心しましたよ。その代わり、ひよどりさんの別な一面を見せて貰って驚き桃の木です。性愛の描写はきめ細かくて、それでいて情感たっぷりで、情景が目に浮かび音が聞こえてくるようですねー。官能小説家として立ちますかー?ははは@^^@
時々下品になりつつ執筆に励んでほしいなあ。

「妻とは別れない」・・・って最初に宣言したことだけど、彼にはわかっていたんだと思うよ。いずれどうなるか。だからまず、この言葉を言ったんじゃないの?ふたりに。
間違ってたらごめん。最近は予想が外れてばかりなんで・・・涙。

今年も着実に前進できるよう願っているし、きっとできると思うよ。
ガンバレーー!

狸さん〜本当にお久しぶりですね。世間から隔離…自分のことは棚に上げてちょっと心配になっているひよどりです。大丈夫ですか?
あれから大きな戦争は勃発していませんよ、ご安心下さいね。
性愛描写、気に入って頂けて嬉しいですe-343 官能小説家にはなれませんよ〜。まだまだ修行が足りませんもの、うふふ。

「妻と別れない」っていう言葉についてだけど、彼にきちんと確認してみますが、多分今回も( ゚д゚)ビンゴーだと思いますよ。ふたりは深い関係に陥ってはいけないのだと、言い聞かせ戒めていたのですね。最初はひよどりも、素直に頷いていましたが、段々苦しくなってきましたよ。彼の存在が自分の中で大きくなればなるほど、愛が深まるほどに…。彼も同じだったと思います。
今は、この問題もクリアして、きっと幸せになるんだと信じて過ごしています。祈りと希望を持って…。
少しずつですが前進していると感じています。狸さんの応援をうけて、どんな困難にも負けないように益々頑張っちゃいますねe-446 これからが彼とあたしの本当の人生ですから!

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